トラジャ物語~その18

【トラジャ物語 その18】
東日本大震災後、ゆっくりと日常に戻っていった、その夏のことでした。

今日は娘のことを書きます。
娘は持病を持っています。
発症は1歳でした。
病気の話なので、苦手な人はスルーをお願いしますね。

***
2011年の7月5日。
排尿時の痛みを訴える娘をかかりつけの小児科に連れてきました。
簡単な尿検査。
膀胱炎ではないか?でも念の為、と医療センターの紹介状をもらいました。

医療センターで診察→そのまま入院。
膀胱炎ではなく、腎盂炎であろう、と。
腎盂炎なら数日の入院でよくなるだろうと思っていました。

その病院は完全看護の病院で、夜9時になると、親は帰宅させられてしまいます。

まだ、1歳4ヶ月の娘をおいて、帰宅しなければなりません。
ずっと泣いている娘をおいて、後ろ髪を引かれながら帰宅しました。

翌日、病院に入ると、昨日よりも元気のない娘がいます。
普段はうるさいぐらいのおしゃべりなのにあまりしゃべりません。

腎盂炎であるならば、抗生物質が割とすぐに効いてくるはず。
しかし、抗生物質の種類を変えても、まったく症状がよくなりません。
それどころか、熱が上がりだし、容態は明らかに悪化していました。

腎盂炎ではなく、別の病気が疑われました。
次男の幼稚園ではやっていた、水疱瘡?
あるいは川崎病?
しかし、症状が一致ぜず、結論付けられなかったのです。

***
娘は個室入院でしたので、日中ずっと一人です。
面会時間は限られていました。
笑顔はとっくに消えていました。

7月7日。七夕です。
娘の熱は更に上がり、朦朧としているのが見て取れます。
抱っこすると烈しく泣くのです。
その様子を見て、主治医の先生が何か思い当たる節があったらしく、「横浜市立医大病院の先生の診察がありますから、見てもらいましょう。」と言いました。

翌日だったと思います。
横浜市立医大の先生に見てもらうと、
「詳しく見るために、ベッドが空き次第、転院しましょう。」と言われました。

先生には、病名は分かっていたようです。

土日は、何もできず、ただ時間を過ごしました。
その間に、私の母が福井から来てくれていました。
家のことは母が見てくれることになりました。
入院から6日。
あまりにも容態が思わしくないこと、個室であったこともあり、泊まりを許可してもらうことができました。

熱が全く下がらないので、ぐったりしています。
少し寝ては泣き、寝てはおきて泣くを繰り返し、夜が明けました。

朝の回診時。
市立医大病院への転院が決まったことを告げられます。

私は急いで夫に連絡し、母とともに病院へ来てもらいました。

夫は母をおろし、退院の手続きをとってその足で仕事へ。

市立医大までは20キロほど離れています。
母に救急車に乗ってもらい、私は、自家用車で追うことにしました。

ナビをセットし、救急車が出てくるのを待ちます。
そこで誤算が生じます。

救急車はサイレンを鳴らして走りさっていきました。
赤信号も関係ありません。
こちらは自家用車。
しかも、初めて行く場所です。

到着が30分以上遅れてしまいました。
娘は救急車の中で泣き続け、診察室でもやはり泣き続けていました。

到着後、血液検査、レントゲン、と検査が続きます。

そして、腎盂炎ではないこと。
川崎病でもないこと。
ある病気の疑いが濃厚であるが、特定できていないので治療が始められないことを告げられました。

市大病院でも個室でした。
乳幼児の場合、ベッドには大人の背よりも高い柵がついています。

落下防止ですが、檻のように見えました。
個室の中に檻。
仕方ないのですが、あまり気持ちの良い風景ではありません。

入院中、娘はほぼ毎日血液検査のために血を抜かれました。
数十種類の検査結果を得るために、多くの血を抜かれます。

娘の手の甲は注射針のあとで紫色に変色していました。
点滴も刺さっています。

高熱でほとんど食事が喉を通っていませんでした。
点滴で命をつないでいる状態だったのです。

毎日の採血のせいで、娘は貧血になっていました。
しかし、病気の特定のためには採血が欠かせません。

ある日の夕方、輸血の同意書にサインを求められました。

輸血は嫌だと思いましたが、
輸血をしないと、命が危険になると告げられたのです。
同意書にサインをし、娘は輸血を受けました。

同時期に、PET検査が行われました。
PET検査は、がんの検査に使われることが有名ですが、この検査は血液の流れを特定するために、必要な検査でした。

病名が特定されるまでの1週間。
娘は高熱の中、何の治療もされずにただただ毎日血を抜かれ、苦しんでいました。

頭では、わかっているつもりでした。

病気が判定されないと、治療を始めることができない、ということ。
間違った判断をくださないための、経過観察であったこと。

毎日担当医がこちらの疑問がすべて解明されるまで根気よく説明をし、質問に答てくれたことには、感謝しています。

でも、感情はそうはいきませんでした。
ひたすら娘を抱っこしているしかできない日々でした。

私が倒れたら元も子もない。
帰宅後は無理やり眠りました。

長男次男を母が見ていてくれたから、娘に集中することができたことはとてもありがたい事でした。

PET検査の後、娘の病名が告げられました。
若年性特発性関節炎(JIA)。
かつては、小児(若年性)リウマチと呼ばれていました。

患者数は小児人口10万人あたり約10人と言われています。

この病気には完治(全治)はありません。
寛解(かんかい)と言って病気の症状が落ち着いて、症状が出てこない状態になる、がベストなのです。

完治がない、ということは、再発(リウマチの場合”再燃”という)の可能性はゼロになることはない、ということなのです。

***
病名がついたことで、やっと治療が開始されました。
その日のうちにステロイドが投与されました。
ステロイドという、強い薬を必要とする病気であったのです。

みるみるうちに、容態は良くなっていきました。
泣き声は大きくなり、意志がはっきりしてきました。

容態が安定したことで、個室から大部屋へ移動することになり、
そこで初めて、私は小児病棟がどういうところであるのかを知ったのです。

***

JIAであると告げられ、調べたときに、
こんな病気があるのかと衝撃を受けました。

うちの子はなぜこんな大変な病気にかかってしまったのだろうと意気消沈しました。

しかし、大学病院の小児病棟には、
様々な病気と戦う子どもたちがいたのです。

直接、何の病気なの、と聞くことはありえません。

毎日通うことで小さい情報から少しづつ、みんなの症状を推察できるようになっていきました。
重い病気を抱えた子どもたちがたくさん入院していました。
病床はいつでも満床でした。

娘の病気がとても軽いものであるような気さえしていたのです。
そういう小児病棟でした。

***
毎日5時間の面会時間いっぱい娘のもとにいました。

DVD、本、小さいおもちゃ、そのくらいしか遊ぶものはなかったと思います。

小さい机を買い、ベッドの上でもお絵かきをしたり、おやつを食べたりできるようにしました。

1ヶ月後。
ステロイドが点滴投与ではなく、経口摂取に切り替わったことで、ようやく退院することができました。

通院治療に切り替わったのです。
ステロイド薬を摂取することで、娘の顔はまんまるになっていきました。
副作用です。
ムーンフェイスと言います。

今となっては愛おしいまんまる顔ですが、
当時はいたたまれなかったことを覚えています。

***

通院治療開始から半年。
年が変わった頃から度々微熱が出るようになりました。

通院時、血圧が高めであるということも指摘されていきます。

5月。
急激に体調を崩し、措置入院。
再燃と診断されてしまいます。

入院し、パルス療法という高濃度ステロイドを投薬する治療を2度受けますが、効果はありませんでした。

1ヶ月入院し、検討の結果、生物学的製剤・アクテムラによる治療が開始されました。

アクテムラはリウマチ治療薬としてはとても効果があります。
しかし、一旦治療を開始すると、長期の治療になること、また、とても高額な薬であることがネックです。

アクテムラは体内の炎症を抑える薬ですので、熱が出なくなります。
熱が出ないので、風邪にかかっても熱症状が出ない→重症であるのに気が付かないということも起こるのです。

アクテムラの投薬が効果があることを確認して、2度めの入院は終了しました。

これが、何年も続く通院投薬の始まりでした。
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同時進行で、この病気のきっかけになった腎盂炎疑いが問題になってきます。

尿検査の結果が毎回良くないのです。

この疑いを晴らすために、開腹による腎臓の生検を行うことになってしまいます。

生検の結果は異常なし。

しかし、この手術時に上がりすぎてしまった血圧が下がらず、この後、降圧剤も飲むことになってしまいます。

ここから、塩分摂取制限も始まります。

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ステロイド薬…もう一つの大きな副作用。

ムーンフェイスはステロイド楽の投薬量が減ることで少しづつ落ち着いていきました。

しかし、完全にステロイド剤を終了できたのは治療開始から4年後。

第一次成長期にステロイドを服薬したことは、大きな副作用を娘に与えました。

それは、成長が抑えられてしまったこと。

小学校入学時で100㎝ちょっと。
その後、1年に4cmほどしか身長が伸びていません。
小学校高学年ですが、やっと120cmに届くか、という身長なのです。

これはとても重い副作用です。
今後、伸びていくことを期待しています。

***

2011年夏に始まった若年性特発性関節炎の治療は未だに続いています。

現在は、寛解状態である、という中での経過観察です。
アクテムラの投薬停止からはちょうど1年。

再燃もなく、1年が経過しました。

やっと、終わりがきた、と実感しています。
もちろん、再燃の懸念がゼロではないので気をつけてはいますが、「普通の小学生」になったのだなぁという気持ちになっています。

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今日は娘の病気の話でした。
あまり聴きたい話ではなかったかと思います。
私も病気のことをこうやって文章にして多くの人に読んでもらうことに対して、少し抵抗もありました。

JIAは診断が難しい病気であるんだそうです。
娘のように発症から10日程度で診断されることは稀なんだとか。

たまたま、かかりつけの小児科医が「念の為」と医療センターへ行くように言ってくれた事。
たまたま、娘の症状を見て「もしや」と気がついて、医大病院の先生(小児リウマチの専門家医)に見てもらうことを提案してくれたこと。
たまたま、専門家医が週1の回診に来ていたこと。

たまたま、その先生が数日後に見てくれて直ぐに転院の手続きをしてくれたこと。

「たまたま」が何個も重なって、専門病院に入院できたことで今の娘があります。

私にできる恩返しは、時々通う献血くらいですが、続けていこうと思っています。

娘を助けてもらったように、誰かの助けになることを願って。

ちょい暗い話でごめんなさい。
やっとトラジャ物語も終盤です。
明日はちょっと楽しい話になるといいなぁと思っています。

写真は当時のもの。
そして、最近の娘もちょっとだけ♪