トラジャ物語~その9

【トラジャ物語 その9】
京都の和裁の学校に入ってしまった私。
一般的には和裁塾と呼ばれていました。この後は塾で統一しています。

今日はその塾での話を中心にしていきます。
興味のある方だけどうぞ~!
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その和裁塾には、7年間在籍しました。

当時、寮にいたのは18~35歳くらいの女子が15人位。
学生と、卒業しても残っている人が混在していました。

お部屋は8人用の部屋。
各部屋を3人程度で使用していました。

入塾してすぐ、塾と寮・まかないのルールから、各部屋のルールまで教えられました。

1階が寮で2階が仕事場。

平日8時半~17時半までが仕事の時間です。
その間に、先生からあてがわれた商品を縫っていきます。
はじめてのものは、同じ席の先輩が、
一つ一つ教えてくれるのです。

そして、仕事が終わると、夕飯。
その後、新人は1ヶ月間の運針特訓を受けます。

時間は毎日1時間。

その間正座でひたすら運針をします。

運針って、できますか?
小学校で運針をちょこっとだけやりましたが、
本来の運針とはこういうものであったのかと、驚愕しました。

足もシビ切れます。
地獄のような運針特訓。

姿勢、もち方、動かし方、返し方。
数人の先輩の監視の中、
ちょっとでも間違うと修正が入ります。

もしかしたら、こんな旧時代の女工みたいな生活なんて絶対イヤ!と思われたかもしれません。
指導は厳しかったですが、いじめのようなものはなかったので、私はツライながらも毎日楽しく運針をしていました。

時々、別の部屋の先輩もやってきて、
一緒に運針をしながら色んな話を聞かせてくれました。

今にして思えば、初期コミュニケーションを取る上で
有効な手段だったんだなとわかります。

***

私にとっては、まかないのほうが大変でした。
3食の支度、
掃除、
買い物、
その他細々したもの。

今の主婦のスキルからすればなんてことはないです。

しかし、お手伝いも碌にしてこなかったので、全て1から学んだようなものです。

食事は、業務委託のおばさんが食材とともに来てくれていました。

大所帯です。

ご飯はガスで炊いていました。
魚焼き器(業務用)があり、
コンロも飲食店用のものが3つ。

お台所に関しては、
一般家庭の感覚がなくなりました。

***

寮の使用量と食事代は、毎日の仕事代から出される仕組みになっていました。

1年生は、全く仕事しなくても、ただで寮にいることができました。

それ以降は、たくさんお仕事をこなせるようになれば、少しだけお給料が出る仕組みになっていました。

とはいえ、雀の涙ほどのお給料。
最初は遊びに行ったりもほとんどできませんでした。

そのうち、寮の先輩が、夜になるとでかけていることに気がつくようになります。

アルバイトです。

夜になると見たことのないハデハデの先輩だらけでびっくりした記憶があります。
ほとんどの先輩が夜のお仕事をやっていました。

時々、寮内で飲み会が行われました。
飲んで騒いで、こういうところは寮ならでは。
飲むとみんなおかしくなるので面白かったです。

旅行もありました。
泊りがけで伊勢志摩や岡山や近場ですが、
宿泊付きの旅行も楽しい思い出です。

和裁塾長の息子がいました。
その人が、時々ふらっとあらわれては寮の子たちを連れて夜のドライブに連れて行ってくれました。

その時行くのは、心霊スポット。
深泥池や、鞍馬の山奥などに連れて行ってくれて、散策して、怪談話を聞かされるのが定番でした。

そんな楽しいことはちょこちょこありましたが、基本は寮にいるだけの生活です。

せっかく京都にいるのに、私は引きこもりでした(笑)

***

そんな中、私は20歳になりました。
そう、成人式ですね。

地元の成人式の案内を見て、私は激怒しました。
そこには、『着物禁止』の文字が。

ふざけんな、と。
私は母が私用に仕立ててくれた着物を着たかったのです。

なぜ禁止なのか聞いてみると、
『着物は高価なものであるため、競争が発生するのを防ぐ』とかなんとか、つまらない理由でした。

確かに、ちょっと見栄を張る傾向のある土地柄であった気がします。

私は成人式の出席をやめました。
母も、これはおかしいと同意してくれました。
そこで、一家で大阪の姉のうちに遊びに行き、大阪天満宮に着物でお参りをし、有名中華料理店で食事会をしました。

大阪はものすごくいい天気でした。
後に聞いたところによると、地元は大雪だったそうです。

そうして、楽しく過ごした2日後。
阪神淡路大震災がおこりました。

和裁塾は、京都の北部の山奥にあったため
被害らしきものはありませんでした。

その日も、いつもどおりに仕事が行われました。
休憩ごとにTVをみて、どんどんひどくなっていく状況に震えました。

しかし、何もできませんでした。
私達は淡々と毎日をこなしていきました。

***

今日も長くなってしまいました。
ここまで読んでくれてありがとうございます。

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