トラジャ物語~その7

【トラジャ物語 その7】
暗い暗い、私のコンプレックスの話を読んでくれた人、ありがとうございます。

そんな思いを抱えつつ、私は高校生になりました。
今日は高校時代の話です。

興味のある方だけどうぞお読みください♡
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高校生になったことで、まわりの人間関係が激変するはず。

そう期待していました。

クラスに、同中の子はなし。

進学先の高校には、同中から15人程進学しました。
全学科とクラス合わせて10クラス。
各々バランスよく振り分けられた結果です。

『やった、新しい人間関係だ!』

そう喜んだのも束の間。
クラスには、同じ中学からきた子同士のコミュニティが
出来上がっていました。

そう。
私は入学当日から孤立しました。

ただ、そこは特に気にしていませんでした。

新しい環境、新しい教室、新しい制服(学校指定服なので既成品でした)

すべて『新』であることのワクワクが私を満たしていたからです。

あっ、そういえば、教科書は卒業生の知り合いからもらいました(笑)

今の高校生で、先輩にお下がり貰う人っているのかな??
大学生ならあるかもだけど。

で。
授業や、HRももう楽しくてしかたなかったのだけれど、一番期待していたのは、部活動です。
中学は強制しかも運動部でしたから、
私は、自分の好きな部活が『選べる』ことにワクワクが止まりませんでした。

そして、入る部活は決めていました。
「写真部」か「美術部」。

なぜそのチョイスか?
それは、当時大好きだった漫画の影響です。
(本の名前は、コメント欄に書きます(笑))

部活のオリエンテーションを受け、
「写真部」が存在しないことが発覚。
必然的に、「美術部」に入部が決まりました。
そうして、部活動も楽しく始まる、というその時。
私にとって、嫌な出来事が起こります。

それは、国語の授業でした。
国語の教師は、
ハリーポッターのドローレス・アンブリッジそっくりのおばさん先生。

このヒトには卒業までいろいろやられるのですが、
高1最初の授業でにドローレス先生は突然言い出しました。

『ワタクシは放送部の顧問なんですが、今年は新入部員が一人もいませんの!どなたか入部していただけないかしら??』

私の心の声「へー、ほー、ふーん。」興味なしです。
私はもう『美術部員』でしたので。
放課後の部活動のことしか頭にありませんでした。

その日は、自己紹介をさせられて授業は終わりました。

授業後、教室移動のために廊下を歩いていると
後ろから私の名前を呼ぶ大きな声が聞こえます。

振り向くと、ドローレスでした。

「◯◯さん(旧姓)、あなた、お姉さんいる?」

突然何言い出すねんドローレス!
そして、またかよ!!!!

そうです。
高校でも、姉は目立ちまくっていたのです…。
『はい、いますけど…。』

最後まで言わさず、ドローレスのターンです。
『あなたのお姉さんは、放送部員だったのよーだから・・・』

休み時間いっぱいまくしたてられ、
私は何がなんだかわからないまま、
『放送部員』になっていました。

中学生の時に、放送委員会をしていたこともあり、
拒否感がそんなになかったのも災いしたのですが、
最終的に放送部は楽しかったし、
(ドローレスは最悪)やってよかったと思ってはいます。

しかし!私の中心は『美術部』にありました。

***

目立たず、目をつけられず、
ひっそり生きていたかった私は美術部に入り浸りました。

部室…兼…美術教員室は、天国でした。

相変わらず、全身オタクな日々を送っていた私ですが、
高校生になったことでいろいろと開放されます。

それは、
オタクを気持ち悪がられることがなくなった、
ということです。

同級生の数、全校生徒の母数が10倍以上になったことで
私自身が目立たなくなったのです。
何をやっていても誰にも咎められない。
やれる事の幅が何十倍にも広がる。

この2つは、私の気持ちを開放していきました。

『自分のしたいことが思う存分できる。』
(勉強はしてなかった(汗))

これは本当に嬉しかった。

理解の深い友だちが増えたことも喜びを倍増しました。

一方で、謎の悪意を向けてくる同級生もいましたが、
かかわらなければ何もなかったので、実害はありませんでした。

そんなこともあり、
私はますます、
「イラストとアニメ」「漫画+本」
の世界にのめり込んでいきました。

美術部は本当に居心地が良く、
毎日、空いた時間はほぼ全て美術室で過ごしました。

美術の先生と美術について、生活について、
その他ありとあらゆる話をしました。

美術の先生は、ご自身の作品も作っていたので、
その様子を直ぐ側で見たり。

美術室は居心地が良すぎ、
私は徐々に「くつろぎのグッズ」を持ち込み始めました。

MYコーヒー豆を持ち込んでコーヒーを淹れたり(オイルランプとビーカーで淹れてました)
冬は、ストーブでもちを焼いたり。(網持参)

ある冬の日、
昼休みにいつものように私はもちを網で焼いていました。

その時、醤油を持ち込み、醤油餅にして焼いていたのです。
それはそれはいい匂いが充満し・・・。

その時、廊下から大きな声がしました。

ドローレスです。

『あら??なにかしら?
ものすごくいい匂いがするわねぇ!!!!
・・・・・・!!
誰ですか?!どこですか?!
ストーブで誰か何か焼いてるのっ?!』

私と先生は息を潜め、顔を見合わせました。

ドローレスはすぐブツブツいいながら去っていったのですが、
私は困りました。

本当は、ストーブで何か焼いてはいけないのです。

このままバレたら美術の先生に迷惑がかかってしまいます。

「まぁ、あれや。食べてしまおうか?証拠隠滅しとこう!」

そう言うと美術の先生はニッコリ笑い、
私と先生は、焼き餅を美味しく食べました。

それ以降は、何か焼くたびに、
『先生、共犯ね!』と渡すようになりました。
あまり、美術部としての活動はしてませんでしたが、
本当に楽しかった。

***

高2になり、進路について決めなければならない時期になりました。

私は、勉強したくなかったので、美大に行くことにしました。
美術の先生に相談し、京都の美術研究所へ通う事に。

美術部でほとんど真面目に活動していなかったのに、
今考えれば相当無謀なのですが、
高2から美大へ行くための勉強を始めたのです。

京都へは毎週末。
大きな休みは姉の家(当時大阪に住んでいました)から通いました。

美大受験を決めてからは美術部で真面目に部活動もするようになりました。

毎日大きなカルトン(画板:畳半分くらいの大きさ)を抱えて通学していました。

当時の校長先生に、
『毎日大きな荷物を持って学校に来ている子』
として認識されていたのですが、
それを聞いたのは卒業してからです。

そんなこんなで私は高校時代をほぼ美術室で過ごしました。

***

高2秋。

忘れられない出来事があります。

放送室が生徒会室のとなりにあるという、
それだけの理由から、なり手のない『図書委員長』に
強引に参加させられました。

このおかげで陰キャだった私がほんのちょっと目立つこともできるようになりました。

生徒会にいたことで、
学校祭の日に美術部としてパフォーマンスをするという
プランを応募することができたのです。

そのパフォーマンスとは、
アートと称して、校舎の屋上から
100個のトイレットペーパーを落とすというもの。

校舎の壁一面が一瞬、真っ白のペーパーで覆われる、
かなり派手なパフォーマンスでした。

当初、自動ペーパー落としマシーン(ダンボール製)を用意していたものの、強風のため、人力による落下作戦に変更。
このとき、生徒会関係者にお願いしまくり、総勢20名で「いっせーのーせ!!」で落としました。

たまたま、その中庭に面した廊下を歩いていた生徒たちが気が付き、ざわざわとあちこちから声が聞こえてきました。

しばらく風に揺れるトイレットペーパーが
校舎の壁面を覆っていたのですが、
強風に煽られ、ものの数分で全て切れてしまいました。

1日だけのつもりで行ったパフォーマンス。
しかし、見れなかった生徒からのリクエストで、
一般開放の日もパフォーマンスを急遽行うことになりました。

1日目はゲリラ的に行ったのですが、
2日目は、放送部の権限を駆使して、
校内放送を再三行い、
パフォーマンスの時間には、
中庭に面した廊下の全てにヒトが見える状態でした。

「只今から、美術部による、トイレットペーパーパフォーマンスを行います・・・3,2,1ゼロ!!」

私は、ハンドマイク片手に大声を上げ、
手伝ってくれた友人たちが、
一斉にトイレットペーパーを落とします。

あのときの、全階層から上がる歓声は忘れられません。

強風に煽られたペーパーが遥か遠くまで飛んでいき、
あちこちにひっかっかったとかで、
学校にはかなりの数の苦情があったそうです。

***

高3。

周りは受験1色でした。
私は美大を受けることに決めていたので、
相変わらず、大きなカルトンを片手に登校。

美術室で過ごしていました。

ボーイフレンドらしき人ができたり、
就職組の子たちと意識の乖離が気になったり、
理系クラスに入っているにもかかわらず、
絵しか描いていなかったりと、
ちっちゃな波はありましたが、
なんとか高校生活も終わりに近づきました。

大雪の中センターを終え、
足切りラインを突破して、
最後の追い込みに研究所に通う日々。

2次試験は3日間に渡り行われました。
その3日目。

我が母校は、卒業式でした。

私は、卒業式にでていません。
そして、合格発表の日。

私の番号は、なかったのです。

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こうして、私の高校生活は終わりました。

大学に行けない私は、どうしたのでしょうか。
浪人して、もう一回挑戦。
それとも・・・。

運命の選択が行われるのですが、
今日も長文すぎる長文になってしまいました。
ここまで読んでくれた方に感謝です!

続きは明日・・・!

写真、ないんですよねー。
ほぼ全て、処分してしまっています。
ほんの少しだけ、後悔しています。
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