辞書を引く授業って無駄じゃない?~あと326日

とあるSNSの投稿を見て、おや?と感じたので書きます。
それは、子どもが持ち帰った国語辞典購入のお知らせから起こった話。
件の母は兄弟のおさがりを持たせようと思った。
兄にも自分のお古を持たせた。
下の子にその兄のものを流用するかで悩んでいた時、兄の告白に衝撃を受けたそうだ。
曰く、授業中、先生からの支持があった。
「○○ページに載っています、開いてください。」と。
兄は戸惑った。
みなと違う辞書だから、当然該当ページに記載されていなかったのだ。
ここまではいい。
よくある話だ。
そこでこの母はこう言う。
「上の子がどんな気持ちでいたのかと思うと申し訳なくて、平謝りした。少しでも節約しようと自分勝手なことをしないで、みなと同じにするのが良かったのだ」と。(要約してます)
おや、とおもった。
何か違和感を感じた。
なぜ謝るのか?
なぜ、みなと同じにすることが良いのか?
ちょっとずれてるのではないかな?
※ここからは私の考えで、「みんな」の意見とは違うかもしれません。
私も同じく、小学生のころの話だが。
国語辞典を買うように学校からの通達を持って帰った。。
うちは裕福ではなかったけれど、学用品を買えないほどでもなかった。
が。
私は拒否した。
父からもらった国語辞典があったからだ。
父が中学生のころに使っていたもので、内容はすごく古い。
サンクトペテルブルグがロシアの首都とか書いてあるし、現代では使わない言葉がわんさか載っていた。
そして”現代”の語句は全く足りていなかった。
旧仮名遣いの単語も載っていたし、何なら見たことのない漢字もたくさん載っていた。
そんな『時代物』の辞書がちょっとカッコよいと思っていたのだ。
では授業ではどうしたのかというと、特に不便はなかった。
ページで指定するような先生はいなかったし、小学生国語辞典ではなかったせいで小さくページ数はほかの子よりも多かったし、何なら、クラスで一番先に検索完了できるスキルはあった。
辞書は面白い読み物で、つまらない国語の授業を聞くくらいならずっと辞書めくっていた方が楽しかった。
つまり何が言いたいのかというと、
小学生の辞典を引く授業って、無駄。
そんな、「○○ページを開いて。みなさ~ん、見つけられましたね-!」なんて授業のどこに生産性があるのだろうか?
辞典を引く授業自体も、皆が使わないほどすたれているのなら、そんな授業もしなくていいのではないだろうか?
スマホに向かって、「OK Google コロナウィルスについて教えて!」って叫べば必要以上の情報をくれる時代において、国語辞典を「開く」授業のどこに意味があるのだろうか。
私は、辞書の引き方を教える授業が必要ないとは言っていない。
辞書をみんなで一緒に同じページを「開く」授業の批判をしているのだ。
この話が本当ならば、この子を教えた先生は無能なのではないだろうか?
それともこの母の文章の書き方がおかしいのだろうか?
まぁ、どっちでもよくて。
自分の子がもしも「国語辞典を引く授業で、『○○ページを開いて』って言われたのに、ぼくの辞書にはそのページにみんなと同じ言葉が乗って無くて悲しかった。」なんて言われた日にゃ、『は?』と言葉使い悪く返答してしまいそうだ。
この母は違う辞書を持たせたことを平謝りするのではなく、そういう場合にはどう対処をするかを教えるべきではなかったか。
同じ言葉が自分の辞書にはここに書いてあるよ!前後の言葉が違うね、辞書によって、時代によって載ってる言葉が違うんだね、と返せば、その隣の子も、「違うものがあるのか」と気が付くことができるのに。
だいたい、そうやって「みんな同じものを使いましょう。」ということを平気で行うから、大人になって、アンドロイドかアップルかの違いで差別意識をもったり、ほかの人が自分と違う種類のガジェットを使っているかもしれないなんて思いいたらない人間になるのではないだろうか(極論)
ああ、久しぶりにちょっと頭に血が上る投稿を読んで興奮してしまったようだ。
せっかくまったり、ゆるゆるな母を偽造していたのにな。